《バッカス》カラヴァッジョ

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ローマ神話に登場するワインの神様
もしもこの少年がバッカスではなかったら
もしもこの少年が実は進んで我が身を捧げようとする生け贄で、
その目の前にいるのがバッカスだったとしたら
この絵はなんて耽美で退廃的な熱を帯びているのだろう


ある日の仕事帰りのこと、へとへとに疲れ、ふらふらと地下鉄の階段を下りて改札へ向かっているところに、マグナムサイズのカラヴァッジョ展の広告を目の当たりにして、度肝を抜かれた。
少年と青年の間を行ったり来たりしているような、それでいてどこか中性的な容貌で(しかも半裸で)、カバーガールならぬカバーボーイを飾っている彼こそが《バッカス》だった。

一目見た瞬間、妙な色気をたたえた絵だなと思った。"にんにく卵黄"とか"マカの元気"とか、あるいはもっと強力な精力剤みたいに刺激的な感じがした(いずれも服用したことはないけれど)。
私は、イタリア絵画は特別好きではないし、カラヴァッジョという画家のこともよく知らなかったけれど、この絵は、そんな私を見たい気にさせる絵だった。

間もなくして、父からカラヴァッジョ展のチケットを譲り受けるという好機を得て、本物とご対面した。


思った通り、いや思った以上にエロティックだった。
まず釘付けになるのはその表情。垂れ目、やや下の方へ落とした視線、特徴的な眉。
(これって仏像のお顔じゃないかしら)
次にその体躯。右腕のたくましい筋肉、それに比して白くなめらかな肌は艶かしい。
そして手元。手の甲は頬と同じ温度の血の気があって、腰紐をほどこうとしていてるその様は、観る者の妄想を駆り立てる。

葡萄の冠も、豊穣な果物籠も、深いワインの色合いも、あまりにも平たいワイングラスも、その波動も、全てにおいて華麗。渋みと深みと味わいのある色彩がとても好い。

まさか、この絵と対峙したら、虜になって、他の展示作品が目に入らなくなってしまうなんて。嗚呼

2016年4月、カラヴァッジョ展 国立西洋美術館にて鑑賞。

《吉野》 奥村土牛

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春の吉野は、見渡すかぎりの全体が桜色に上気しているようで、匂い立っていて、色合いはおぼろげで。
何千本もの木が一斉に花咲かせているのに、奥ゆかしくて、どこか寂しげで。

その情景がまさにこの絵にありありと描かれていたものだから、土牛の技法は、何回も何回も水のように薄い色を重ねてゆくその技法は、この春の吉野山を描くためにあったんじゃないかと、そのような必然性を感じながら見ていた。

土牛の言葉も印象的。

   いざ制作している中(うち)に、何か荘厳の中に目頭が熱くなった。
   何か歴史画を描いて居る思いがした。

きっと、思いを込めながら、丹念に色を重ねていったのでしょう。
白寿にしてこの作品!

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奥村土牛―画業ひとすじ100年のあゆみ―」にて鑑賞。
このたびは、青い日記帳×山種美術館 ブロガー内覧会に参加し、館長の丁寧な解説や青い日記帳のTakさんの軽妙なトークを通して土牛作品にじっくりと向き合うことができ、貴重な機会をいただきました(御礼)。

今回の主役は《醍醐》の桜かもしれないけれど、あえて《吉野》。
でも好対照な趣(醍醐が"ますらお"で吉野は"たおやめ"といった感じ)でどちらも春の季節にふさわしいすばらしい作品。

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展示風景はこんな感じ(撮影許可を頂きました)。
《吉野》の前には腰掛けがあるので、座ってゆっくりと鑑賞することができます。

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展覧会にちなんだ特製和菓子
選ぶのも見るのも食べるのもいつも楽しみ
写真は《水のおもて》


山種美術館を訪れる度に、日本画への興味が増している気がする。

《ヴェールをかぶった女》 アンリ・マティス

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メナード美術館

マティスの描く女性はいつも国籍不明の美しさを湛えている。そしてお洒落。彼女はシースルーのヴェールと衣服を大胆に着こなし、マティスはそれをさらりと描いてみせる。互いに自らのセンスを余すことなく発揮して。

(2015年7月、日本経済新聞 アートトーキングに掲載)

《画家の娘 マティス嬢の肖像》 アンリ・マティス

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国立新美術館大原美術館の絵がやってくることを知るなり、マティス嬢の絵も来るのかしら、きっと来るわよね!(ハアハア)と、一人でザワザワしながら、再会を待ち焦がれていた。

よれた白目も、つぼめた口元も、帽子の影とハイライトも、少しエラの張った輪郭も、ああ、すべてがいとおしい。
児島虎次郎がこの絵をどうしても欲しかった気持ち、大切な絵を虎次郎に託したマティス嬢の気持ち、ああ、うつくしい。

2016年3月、国立新美術館(「はじまり、美の饗宴展 すばらしき大原美術館コレクション」)にて鑑賞。


(2011年 レビュー)
無国籍の、と例えるとこのご令嬢には失礼極まりないけれども、西洋とも東洋ともつかない、どこかにいそうな、どこにもいなさそうな顔立ち。さらりと簡素に描かれているようだけれど、なんだろうこの強い印象。雰囲気があって、大好きな絵。マティスってこんな絵も描くんだなあ、しかも自分の娘を描くなんてね、自慢の娘だったのかな、きっと心を込めて描いたんだろうなあ、なんて勝手に親心を察しながら見ていた。

毛皮の襟巻のようなものがラグジュアリーだし、帽子に添えられた花のコサージュ?もアクセントになってて、お洒落。

それにしても、この顔の向き、マティスって左利きなのかな?とふと思ったりした。

これは2度目の大原鑑賞で目にとまった絵。今度訪れた時は、どんな絵に心惹かれるのだろう。

《髪》アマン・ジャン

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今から10年以上も前のこと、大原美術館を初訪した時に、展示室に入るとすぐにこの絵が出迎えてくれたことをよく憶えている。
その絵は、四角形じゃないというただそれだけで人目を引いていたし、乳房がぽろりとこぼれながらもちっとも恥ずかしげのない表情(悦に入っている!)は優美であったし、何はさておき、この女性の髪のたわわなること限りなし、だったのである。
しこうしてその絵の題名は、髪。納得。

私事ながら、私自身も相当な毛量を自負しているのだけれど、彼女の毛量にはかなわない。風前の塵。
察するに、あれはくせっ毛の太めのごわごわ毛髪で、さぞかし櫛の入れ甲斐がありましょう。背後のメイドさんに訊いてみたい。

この絵を描いたのがアマン・ジャンという画家だということをその時に初めて知り、大原美術館といえばアマン・ジャンとまで私の脳内にデフォルトされた。
事実、この絵は大原コレクションの第1号作品であるという、なんともメモリアル。

そしてその後2回ほど大原美術館を再訪した時も、やっぱりあの毛量にはかなわないと思ったし、この度、国立新美術館に出張展覧会でやってきて久しぶりにこの絵に会って、やっぱりかなわなかった。むしろ毛量増してるんじゃないかってくらい。

と、それは置いておいて、久しぶりに対面して思ったのは、豊満な髪も豊満なボディも、それすなわち、富。

2016年3月、「はじまり、美の饗宴展 すばらしき大原美術館コレクション」国立新美術館  にて鑑賞。

《ベローナ》レンブラント・ファン・レイン


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レンブラントの人物画、好き。

よくファッション雑誌の見出しで"こなれカジュアル"という表現が用いられるけれど、その言葉をちょいと拝借させていただくと、レンブラントの人物画はいわば"こなれフォーマル"なのである。
この安定感よ。

そしてレンブラントが描く女性ってだいたい似たような顔してるよな、と思ったらそれもそのはず、モデルはおなじみの妻サスキア。
何なんでしょうね、この親近感と包容力は。何なんでしょうね、この顔、どこかで会った気がするのは。

ベローナとは、ローマ神話に登場する戦いの女神。
この親しみやすい顔立ちからは闘争心がまるで感じられないけれど、そこが無敵フラグ。どう見てもこの人、絶対無敵。
いつの時代もカミさんは強し、なのでしょうか。レンブラントさんよ。


2016年2月「フェルメールレンブラント:17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち展」@森アーツセンターギャラリーにて鑑賞。
この国でフェルメールはもはや客寄せパンダになっているということに些か辟易しながらも、やっぱり見に行ってしまい、そしてやっぱり群がってしまうのが群衆心理。
フェルメールの絵がVIP待遇で奉られ、パネルや映像で超絶丁寧に解説されているのに対して、両A面であるはずのこの絵があまりにも凡庸な扱いだったので、なおのこと私はこの絵を支持したいと思ったのでした。

《白いスイートピー》ヘレン・シャルフベック

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ヘレン・シャルフベック
フィンランドの女流画家

最初は名前も知らなくて、
ポスターだけ見てもあまり心惹かれなくて一度は見送ったものの、
近しき芸術愛好者達が口を揃えてその作品を賞賛していたものだから、
見逃したことに後ろ髪引かれる思いで過ごしていたら、
巡り巡って葉山で展覧会が開催されるということを知って、
平日に有給休暇を取って出掛けたのでした
冬の日に 湘南新宿ラインに乗って 

その美しい画家は
幼少の頃から足が不自由で、
二度の失恋をして、
生涯で一度も伴侶を得ることもなく、

こう連ねると悲劇のヒロインのような聞こえがするけれど、
(たしかに二度目の失恋を経て描かれた自画像などは、Cold songを唄うクラウス・ノミを彷彿とさせるホラーな形相で...)
悲劇のまま終わらなかったのは、芸術が彼女を裏切らなかったからでしょう

ホイッスラーやマネに影響を受けた初期の写実的な作品に始まり、中盤にかけては、画家の個性に磨きがかかるにつれ画風が抽象的になってゆくさまが面白く、ベラスケス、エル・グレコといった土壌違いのスペイン絵画にインスパイアされた作品も味わい深く(それは北欧の風土で育ったトマト、みたいな)、過去に描いた絵を今の感性をもって描き直すという"再解釈"の試みには、自分のスタイルをどこまでも真摯に求める姿勢が感じられ、ほの昏い晩年期の作品は、自らの孤独な顛末をしかと受け止めているようにも見えた

素晴らしかったのは、神奈川県立近代美術館の広々としていて心地よい静けさのただようハコの中に、作品がただ一つの過不足もなくぴったりときれいに収まっていたこと
特に、最初の展示室を見終わって、ぐるりと全体を俯瞰した時の、均整のとれた配置のバランスの美しさといったら ため息もので

さて、その中でひとつだけ作品を選ぶとしたら
私はこのスイートピーの絵がいい 

《白いスイートピー

ちょうど葉山に行くと決めた時にたまたま横光利一の「春は馬車に乗って」という葉山を舞台とする短篇を読んだ
その物語は、岬を廻ってスイートピーが主人公の元に届けられて印象的な結末を迎えるのだけれど、私は、"馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を捲き捲きやって来た"そのスイートピーの花の色は、赤でもピンクでも黄色でもなく白だったんじゃないかと漠然と思っていて、
そして葉山の地でこの絵に出会って、ああやっぱりそうだったんだ、と確信した

ティッシュみたいにぺらっとした花びらは、儚さだとか可憐さだとかをそっと削ぎ落とすように抽象的に描かれていて、全体的に渋みがかっていて、媚びている感じがしないから、この絵に惹かれるのかもしれない

少し灰色がかった空と海と穏やかな凪とまったりとした時の流れが、北欧からやってきた絵画と見事に調和していた、
冬の終わりの静かな葉山の日に

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